2020-05-01

母の付き添いで病院へ。内視鏡検査とCT。結果は多分、最悪に近いもの。検査結果が全て出たわけではないので、多少の留保をつけつつも、「残念ながら現代の医療では」という、どこかで聞いたようなテンプレを医者は発する。会計を待つ時間はすでに外来の終わる頃で、混み合っていたロビーもガランとしている。帰りのタクシーでは何を話したら良いのかもわからない。

あの瞬間に運命が決まったとか、その種のタイミングを欠いた人生だったけど、なあ、1年前に仮に検査していれば、何も手遅れではなかったし、検査をするタイミングもまた、あったんだな。よくあること。全部が全部、どこかで聞いた話。でも、自分が経験するとは思わない。もちろん、まだ検査の詳細が出たわけでないし、次に受ける検査もある。すべてが奇跡的にひっくり返ることもある。でも、あまりその手のことを信じる人間でもない。

2020-04-29

ドラッグストアで大人用の紙おむつと眼帯を買う。紙おむつとか、初めて買いに行ったのだが種類がたくさんあり、何が良いのか分からない。とりあえず1日分だけあれば良かったのだけれど、そんなのはないので18枚、1000円くらいで買う。支出がかさむ。金がない。

晩御飯はかぼちゃの煮物と冷や奴、それから冷凍食品の水餃子。

2019-12-27

訓練の最終日。行きの電車で『日常世界を哲学する』という本を読んでいたら、ふと、関係のないことを思った。私は自然言語で文章を書くことに憧れがあったのだけれど、それはムリなのだ、と。

今回、訓練校でコードを書いて、稚拙でも一つの作品を組み上げられたのは、その論理的辻褄を問い合わせられるインタプリタコンパイラがあったからだ。また、それを通っても期待する挙動を示さなければ間違っている、と判別できる「期待」が予めあったからでもある。コードを書くとき、私は間違いを修正し、改善し、少しずつ現実的に進んでいくことができる。学んでいける。

でも、私が雑然と自然言語で何かを書く際、その論理的辻褄を外部に問い合わせようとはしない。それに期待するような「挙動」もない。自己満足しかないから、そこで私は何も間違えない。間違えないからその修正も改善もない。何も学ばず、成長もしない。もちろん、それはそれで良いとは言える。でも、書くことに憧れのあった「文章」って、そういうのじゃないよな。

今回、訓練校で書いたコードは稚拙で、結局の所このコースの全体的に見ても大したものにはならなかった。でも、書きたかった「文章」に、ほんの少しでも似てるのは、私が日常的に書いたり書かなかったりしている戯言でなく、今回のコードの方だった。

2019-12-25

母が本格的にボケ始めた。今までは、1日の前半に出かけていたから、疲れていたから、とか理由づけして誤魔化していられたけれど、今は関係なく朝から晩までボケている。母はクリスマスだからケーキを買ってきた。その周囲に付いているフィルムを剥がせないのは1年前も同じだったけれど、今日はケーキの食べ方自体が、微妙に分からなくなっているようだった。食べこぼしが多いのは以前からのことだ。この前は、ハンバーグの食べ方が、分からなかったのだった。一昨日は水道が止まらないといい、水道の取っ手がどこにあるのかを思い出せない、という。取っ手は見ればわかるだけのものに思えて、それもまた記憶から引きずり出す必要のある知識である、というのは、考えたこともなかった。その意味で、面白いといえば面白いが、赤の他人相手なら感心できることも、家族となると、単に感心するのはムリがある。

限界だな。

来年は自立生活が立ち行かなくなってゆく1年になるんだろうという気がする。

2019-12-10

今、訓練校に行っていて、そろそろ終わりなんだけどさ、結論として、おれが精一杯やった結果はこんなでした、というのを提出しようと思ってる。これ以上できたとか、もっとできたはずとかそういう幻想はない。逃げ場とか、言い訳の効かない形で提出する。これがおれの限界です、という限界を提出する。

低レベルな限界が露呈するのを恐れてきた人生だったんだと思う。

2019-11-29

休日。作業を少し。訓練の終わりに向けて、1つ簡易なアプリもどきをでっち上げることになっていて、その準備。最近、母の言葉が微妙に脈絡を外れることが増えた。

2019-11-28

7時起床。訓練校、淡々とコードを書く。訓練校は基本的にはそれ以外のことは求められていないわけだけど、コードを一行たりとも書かない人も半数ほどいる。彼らが何をやってるかというと、違法アップロードされた漫画を延々と読んでいたり、最前列の席で爆睡していたりする。爆睡とか、講師に対する最低限の(表面的な)敬意さえもないし、どうなんだろう、とは思うけれども、要するに私が入り込める集団とはこの程度のものだ、という外挿的な納得感がありもする。

帰りにパスカル『パンセ』を買う。千葉雅也の小説とか、村田沙耶香とか、気になったものはあったが、今は古典を読みたいことになっていて、パスカルは当然にパンチラインに溢れた作家なのだが、それに感心するのも違う気がする。感心なら、他の誰かがやればいい。スラヴォイ・ジジェクがどこかで、バラエティ番組に挿入される「笑い声」は、人から笑うという重荷を免除してくれる、とか確か書いていたことがあって、意味がわからないけれども、感心も笑いも、他の誰かがやればいいと思うことはある。『パンセ』は岩波文庫のものだが、パスカルが参照しただろうモンテーニュ『エセー』の該当箇所などが豊富に註で挙げられていて、良い買い物だった。

パンセ(上) (岩波文庫)

パンセ(上) (岩波文庫)