2019-11-28

7時起床。訓練校、淡々とコードを書く。訓練校は基本的にはそれ以外のことは求められていないわけだけど、コードを一行たりとも書かない人も半数ほどいる。彼らが何をやってるかというと、違法アップロードされた漫画を延々と読んでいたり、最前列の席で爆睡していたりする。爆睡とか、講師に対する最低限の(表面的な)敬意さえもないし、どうなんだろう、とは思うけれども、要するに私が入り込める集団とはこの程度のものだ、という外挿的な納得感がありもする。

帰りにパスカル『パンセ』を買う。千葉雅也の小説とか、村田沙耶香とか、気になったものはあったが、今は古典を読みたいことになっていて、パスカルは当然にパンチラインに溢れた作家なのだが、それに感心するのも違う気がする。感心なら、他の誰かがやればいい。スラヴォイ・ジジェクがどこかで、バラエティ番組に挿入される「笑い声」は、人から笑うという重荷を免除してくれる、とか確か書いていたことがあって、意味がわからないけれども、感心も笑いも、他の誰かがやればいいと思うことはある。『パンセ』は岩波文庫のものだが、パスカルが参照しただろうモンテーニュ『エセー』の該当箇所などが豊富に註で挙げられていて、良い買い物だった。

パンセ(上) (岩波文庫)

パンセ(上) (岩波文庫)

2019-11-27

7時起床。訓練校で淡々と作業。公式のチュートリアルが読めるようになってきた感。

『パンセ』を買うか悩んで今日も延期。本を買うのは難しい。プリーモ・レーヴィも悩んだが同じく買えず。あと、買う予定だったPythonアルゴリズムな新刊も見送った。自分のレベルに見合ったAtCoderの問題を消化するのが先だろう。買えなかった本の日記、とは地味すぎるし、本くらい買ったらいいと思う。別に高くない。しかし円城塔のコメントから手にとった『想起の文化』は5,200円で、さすがに買っていいとは思われなかった。

帰宅すると母が毎度のようにソファーでぐったりしている。ドーパミン系の病気なので、それは人の気力を毀損する。鬱にも転げやすい。私自身が、そう活動的な人生ではないし、無かった。だからもう少し動いたほうが良いよ、とは言いづらいというか昔の母は、まるで動かず人生をムダにしてばかりの私に山ほどの言いたいことがきっとあっただろう、と、今更思わされる。しかし母はそれを言わなかったし、私は以心伝心で聞き取るような機能を持っていない。あるいは、端的に無視した。

セブンの金のハンバーグを食べた。味も量も値段も丁度よい、よく出来た商品。

2019-11-26

7時起床。訓練校。淡々と作業を進める。帰るとAmazonのセールで買った掃除機が届いたので部屋の掃除をし、やはり掃除ロボット(ルンバもどき)の方が優れていると思うことになる。人間の気まぐれに対しての、機械の圧倒的な執拗さ。導線確保が面倒とか言わず、掃除ロボットを駆使することを改めて決める。パスカルの『パンセ』を買いそびれていた。「現在」に関してはプログラミング周辺だけでよく、ほかについては昔々の本に自足していたほうが良いのでないか、とはたまに思うこと。しかしそう限定的になりきれないのもいつものことなのだが、『植草甚一日記』とか、なぜか面白くて。といっても飛ばし飛ばしだし、実際にはあまり読まないのだけれど、そういう興味のない距離感において、とても好ましい本というのはある。

2019-11-02

11月。訓練の残りは2ヶ月を切った。残りの時間で何をやるかは、ある程度具体的に確定してるので、後はやるだけ。明日もあさっても、Androidチュートリアルを淡々と進める。あとは競プロの問題を解く。プログラミングを、私は永遠に続けることになるのかもしれない。永遠は大げさだが、ある日私は、読書というのを永遠に続けるのでないかと思った、その永遠と同じようなニュアンスで、そんなふうに思っている。

トランスジェンダーの私がボクサーになるまで』という本を読んでいる。奇妙にも身をつまされる。「男」として「パスする(通用する)」という感覚・感情のうちにある、何か簡単には飲み込んでしまってはいけないもの。彼女が彼になることで、失われた接触。周囲に生まれた空白について。

トランスジェンダーの私がボクサーになるまで

トランスジェンダーの私がボクサーになるまで

2019-10-26

朝からパーキンソン病の薬が見つからない。ついでに化粧箱も。化粧箱は記憶では1辺20センチくらいの立方体で、つまり、家の中で失くすにはあまりに大きすぎる。昨日母は外に出ていないので、どう考えても家の中にあるはずなのだが、1時間以上捜索しても、見つからない。多分、薬もその化粧箱に入っているのだろう。

薬局に電話して、2日分の薬をつなぎとして出してもらえないか、と言ったけれど、診察を経てでないと出せない、という返答。それはそうだろうとも思う。パーキンソン病の薬は安易な薬ではない。


思いも寄らない仕方で、でも、人が老いて死ぬことは常識でもあって、でも、思いも寄らない。

2019-10-25

家に帰ると母が壊滅的にボケていた。

…。

朝は、正常だったはずなんだけどな。なぜか三角コーナーにご飯が捨ててある。机にはふりかけをかけた痕跡のある器が、あって、他には紙切れや薬、目薬等であまりに散らかっていて。薬を普段の場所に戻し、目薬を戻し、というのを、私が指示するようにして言葉にして、やってもらう。何かを片付けるのにも最低限の段取りというものは必要で、1つ2つを普段の位置に戻すという段取りが、今日の母には取れない。今、どうして椅子を持ち上げ、場所を移動させたのだろう。その理由が飲み込めない。

そして、飲み込める。母は米を収納するケースを、探していた。持ち上げるという動作は、それに微妙に重なる。

…。

まだ、今年の春頃までは病気とは言っても、単に行動がスローモーで、程度のものだった。7月頃から、衰えが顕著になった。

…。

薬を服用し始めて消えた身体の傾きが、ここ数日で、再登場した。

…。

アルコールを摂取しないほうがいいのは、私には自明すぎるほど自明で、しかし母はそれを分からない。で、私が母に説教する的な展開になり、一体私は何様なんだ。

…。

洗い物をする。これは多分、言葉=意識の問題ではないんだろうと思う。意識=言葉の届かない場所での狂いに、意識=言葉でなんとかしろということには意味がない。ある種、こういうことを、とても実感なく考えてきた人生でもあったような気がするのだが、要するに私は何も分かっちゃいない。

…。

2019-10-22

母は親族的なイベント(食事)に出かけていて、朝は普段よりも念入りに準備していたけれどもヘアドライヤーの電源を入れられない。スイッチは手元にありそれをカチッとやると入る、とは生活上の前提だが、そのスイッチ、あるいはスイッチが有るという事実が、見失われているようだった。「見失う」とは視力に仮託した表現だが、目をつむってもスイッチは入れられる。母に起こっているのは視力的な異変ではない。

ドライヤーを買ったのは1年ほど前。そのときには、電源を入れられる/入れられないという区別がありうるとは考えていなかった。