辛い

まだ仕事に出発する前だが、辛い。昨日、勝間和代さんの『最後の英語やり直し!』という本を読んだ。冒頭に

この本は、私のように、学生時代に全く英語に興味がなく、スルーしていたところ、社会人になって突然英語が必要になって、基礎も何もないところから、なんとかビジネスで使える英語を身につけたい人のための本です。

とあって、いきなり振り落とされる感じだが、構わず読んだ。

1章は良いことが書いてあり、この本はここだけで良いと思う。でも、一番勝間さんの啓発書作家としての本領が発揮されているのは3章かもしれない。前半では、英語さえできれば世界はバラ色的な戯言を(戯言チックであるとアノテーションしつつ)書き、後半は日本語が残念ながらオワコンであるという指摘を連ねる。

この本は2014年の本だが、こういう指摘とこういう文体って、一昔前のネットだな感がある。

と書いている間に、出発時刻が迫ってくる。辛い。

年を取ると、どうしたって社会に流通する言説とか、「気分」とかが総入れ替わりしてしまう、ってのを観察させられる。20代前半から中盤くらいの時期、わたしはとても辛かったが、その当時、リーマンショックとか、年越し派遣村バズワードとしての「自己責任」なんかがあり、それに促されわたしは『責任という虚構』なる本を読み、なるほど責任とは人間にとっての擬制なのだと納得したりしたのだが、そういった全ては、数年で入れ替わる。2011年の震災に「自己責任」という言葉を持ち出すのはあまりにムリになってしまったし、更にその後にはアベノミクス云々で株価は上がり、前から枯渇していたはずの人材の枯渇に急に気づき、人手不足倒産なる、昔のバブル期のそれが再現されたりする。

そういった全てがバズワードに見えだす。

それを相手にする意義がどの辺にあるんだろうと、中年になったわたしは思う。

こうして人は自然に回帰したり(急にエコに目覚めたりする)、歴史やらクラシックに回帰したりする。要は時代遅れになる。わたしの場合にもそれは起こり、人間の文化にとってのクラシックとは数学と論理である、と思う。しかしこれ自体、時代の産物ではあり(社会を直接参照していないかに見える数理系のナードが世界を書き換える、とは、現代的な幻想だしーーチューリングがスターになる世界だーー、アスペルガーという言葉の氾濫もその系だろう)、どうあれ時代のバズの外側には立てない。

要約すると、仕事に行きたくない

最後の英語やり直し!

最後の英語やり直し!

責任という虚構

責任という虚構