2018-06-30

日記を書きたかった。今更、自分の心理的脆弱性だとか、履歴書あるいは人生が空っぽであることに対する慨嘆を書きたいわけではないのだった。ずっと、つまらないことに悩み、今も悩みがないわけでもないのだがそれは薄れ、薄れた結果として余白が生まれ、しかしその余白を埋めるような言葉はなかった。言葉がないと、なにもないかのように思われ、今日は土曜で、平日の疲れが残っていた。

30キロあるジュースの詰まった箱を延々と、といってもせいぜい10分位のあいだ上げ下げした、昨日、真夏にこの作業はキツく、その後汗がしばらく止まらず、まだ真夏でもなかった。

明日は教習所に行く。免許をとったら転職しよう。ムリのない範囲で継続的に筋トレをし、体力を改善しよう。散発的にコードを書き、長続きしない興味に従い各種の本を読もう。しかしそれが何に? そういった事を考えたいのでも、なかった。

図書館で、『「蓋然性」の探求』、『統計思考の世界』、『利己的な遺伝子』、『親切な進化生物学者』、『ニッポン放浪記』を借りた。借りてきた本を読み、アルゼンチン VS フランス、ムバッペの羽が生えたような、尋常でない速さ。

蓋然性(=確からしさ、プロバビリティー)の数学は1654年にパスカルフェルマーによって発見されたが、それ以前も、それ以降も、人々は数学者からのありがたいアドバイスなしに不確実性をうまく処理してきた。と同時にその方法について語り、書きもしてきた。したがって、数学にも数学の予兆にも関係のない確率の歴史が存在する。(ジェームズ・フランクリン『「蓋然性」の探求』)

『「蓋然性」の探求』の帯はナシーム・ニコラス・タレブの言葉だが、実際本書の冒頭にある上記はいかにも『反脆弱性』のタレブ的な観点だと、思った。